平田オリザ氏の発言

グローバル化で文化はどうなる?:日本とヨーロッパの対話 EU・ジャパンフェスト日本委員会/編 根本長兵衛/監修 加藤周一/ほか 著  2003.11 藤原書店 ISBN:4894343622

クレオールというのは、押し付けられたものであるという感覚があり、
ある種の孤独なりがあって、その中で相談しながら
「私たちはどの言葉をこれから選択していこうか」という部分がある
わけですが、日本の場合は、その過程が不明瞭な為に
押し付けられたという感覚は普段持ってないけど、
自分の身体に合わないものがあるから、ある時
突如「これは全部押し付けられたモノだ」という感覚にとらわれる。
そして「こんなのは、全部自分のものではない」と拒絶して、
いわゆる「伝統」に回帰してしまう。ここが問題なのだと思います。
消費社会における演劇というものは、
常に参加の道が開けていなといけない。しかも
参加してみると、奥が深かったり、大変だったりするのでないと価値がない。
――剣玉の世界チャンピオンは感心はされるけど、尊敬はされない。
有名マラソン選手は、どんな人かなんて皆知らないのに、
人間的にも尊敬されている例&理由を述べて――
今の俳優の技術って、剣玉の技術と思われているんじゃないでしょうか。
だからこそ、演劇の場合は、とにかくヤってもらわないと
解らないところがある。
「なぜ人は感動するのか」
「なぜ人は戯曲の嘘にだまされるのか」
その構造は、全部ばらすべきだと思うんです。
それが解っていても、それでも面白いものだけが残っていくべきだと
僕は思っているんです。例えば、自己啓発セミナーなんて、
演劇のワークショップと本当に近いことをやってますね。
セミナーなんかと一緒にされないためには、観客の側に
「演劇っていうのは、こういう風にして人間を騙すんですよ」って
ことを知ってもらった上で楽しんでもらう。
そんな大人の娯楽にならないと、演劇は延命しない。